おいでよ仏滅の森

書きたいことがあった時に書きます

プリキュアのジェンダー論について書いたブログを読んだら「たまこまーけっと」について話したくなった

 
 
先日、Twitterのタイムラインを流れてきた記事を読んだ。
 

 
ツイートからのリンクはブログ。
 
つまり読んだのはリンク先のブログ記事だ。
 
読み終わると僕は、少し文章が書きたくなってしまった。
そこで新しくブログを作り、記事を書いてしまった。
まぁ、そんなこともあるでしょう。
勢いこんで書く記事というのもあって良いでしょう。
 
で、何を書きたかったと言えば、現代的なジェンダーの在り方が扱われたアニメについて、ひとつ僕はどうしても書きたくなってしまったのだ。
 
ジェンダーの多様化を扱ったアニメ」と言われると、僕は「たまこまーけっと」というアニメを挙げる。
 
 
絶妙に過疎までいかない地方都市レベルな商店街の餅屋の娘で、呑気でドンくさい(個人の感想です)普通の女子高生「たまこ」が、日々悩んだり事件が起こったりしながらもなんだかんだ明るく生きるみたいな、商店街も含めての家族ドラマのような作品だ。
喋る鳥「デラちゃん」という奇天烈な存在が登場するものの、家族や街の人との交流がほんわかとしていながらも笑いあり涙ありというか、寺内貫太郎一家京アニデザインにしたような物語である。小林亞聖的存在はいないが。
 
 
で、最初は「今期の京アニはどんな話かな?」くらいのノリで何気なく見てたのだけど、とある人物の作品内での扱い方が僕の心をついたのだ。
 
綺麗な花屋のお姉さんが商店街の一員として登場するのだが、男性声優がCVであてられ、しかし作品中ではそのことに何1つ触れない。
オカマ・オネエとして笑い者にするなんてことなく、逆にニューハーフ・トランスジェンダーとして社会に物申してるわけでもない。
ただ男性声優の声が当てられた綺麗な花屋のお姉さんが登場していただけ。
公式ホームページを見てもキャラクターの説明には、
 
『花瀬かおる cv : 小野大輔 花屋のきれいな店主』
と、あるだけ。
 
その作品のスタンスに僕は感動してしまったのですよ。
何の説明もないことにこそ、すごく感動したんですね。
 
男性のような声のXX染色体を持った人間かもしれないし、女性ジェンダーを自認して生きるXY染色体の人間かもしれない。
いやいや、そんなのはどっちでもよくて。
こんな有体な言い方は嫌なんだけど「視聴者に違和感を抱かせる人物」が、きわめて自然に当然の体で、街の一員社会の一員として生きていて、主人公たまこや街の人も至極当然の普通の態度で接している。
 
……顔と声の組み合わせに違和感があるなんて言い方は、とんでもなく失礼な物言いだよね。
印象なんてのはどんな場合も先入観によるもので、他人の先入観に応えてやる義務なんてないのだから……
 
 
とにかく、「そういう容姿のそういう声の人」っていうパーソナリティを持った登場人物がなんの衒いもなく自然の姿で描かれ、生物学的性はどっちか? なんていう疑問の存在を徹底的に無意味なものにした態度の作品ってのは、現代を舞台にしたアニメでは見たことがなくて、もう本当に感動したのだ。
 
存在する。いる。生きている。
ただそれだけを何の説明もなく描いていた。
大事なのは、不自然に丁重に扱われてもいなかったということ。
これが本当に大事なのだと思う。
性自認の問題は弱者を生むものではないし、従って性自認問題の当事者が弱者のスタンスであっては不自然なのだから
 
この先、性自認の多様性は、社会で当たり前になっていくだろう。
どのように生きるかもそうだし、パートナーシップの面でも当然、多様化するのは間違いない。
 
パートナーとなる二人が、ストレートに男女、生物学的(セックス)にも社会的意味合い(ジェンダー)においても男女同士でなければ認められない社会は、すでに終わりつつある。
 
ゲイ・レズビアントランスジェンダーバイセクシャルパンセクシャル、なんだか言葉ばかり多いのだけれど、つまるところそんな言葉なんてものは、自分なり他人なりを形式的に理解しようと考える人にとっての道具でしかない。
これからはそんな言葉すら必要なくなる社会になってほしいと僕は思っているし、遠からずそうなるだろうとも思う。
 
持ち合わせた生物学的性と社会的な性とによるマトリクスの中で、自分はどこに属するのかと自認すればよいし、恋愛対象、パートナー対象としてどのような相手を求めるのかも、結局マトリクスの中に納まるだけの話。
自分は○○だから○○な相手を望むという生き方もよいだろうし、愛した相手が○○だったでもよいだろうし。
 
するとこの先、パートナーとなった二人が『たまたま精子卵子を生産しており、生殖能力に問題がなかった場合にのみ互いの遺伝子を継承させることができる』というところまで、子孫を残すという行為は相対化されていく。
もちろん、子孫を残すということを重要に思うのならば、自分とパートナーが精子を生産する個体と卵子を生産する個体の組み合わせであることを重視すべきなんだけど、それすらもやはり個人の選択になるのではないか。
 
この極めて個人主義的な幸福追求は、当然の帰着として少子化を社会に強いるだろうし、思想の自由を保障する先進国は逃れられないだろう。
この問題については僕なりに思うことがあるので、そのうち書きたくなったら書くと思う。
 
なんだか、もう一度たまこまーけっとを見たくなりましたよ? っていう〆。